私がうつ病から社会復帰する時にどのようなステップを踏んだのか、という個人的な体験談です。少し長くなりますが、こんな例もあるという記録です。Part 1~3に分けてお話しします。
振り返ればうつがいる。重症期〜自力リハビリ期
うつ病の症状と発病の経緯
まず、うつ病というのは脳・精神の病だと思われがちですが、重い状態のまま数年も経つと、薬物治療や運動不足による様々な合併症が現れてくるものです。不眠・食欲異常・耳鳴り・頭痛・腹部症状(IBS)・脂質異常・肝機能低下・パニック発作などなど、身体的にもガッツリ病むということをお伝えしたい。
私の場合、20代が一番辛い時期でした。原因は元々の虚弱体質と、修士論文・卒業制作によるストレスと過労、そして就職氷河期世代特有の就活での苦労だと思います。
数ヶ月前から前兆はあったものの、ついに卒業式の2週間前、4日間一睡もせず、水も飲まず、血圧が200〜230ほどに上がり苦しさから頭を壁に打ちつけるという事態になり(気絶して楽になりたかったのか?あまり覚えていない)郊外の精神病院に緊急入院しました。診断名は大うつ病。
大学で専門知識と実技を身につけ、それを活かしてデザイン系の職種に就くことが夢でしたが、後一歩のところで社会のレールから大きく外れてしまいました。
しかし無謀なことに、「どうしても就職しなければ!卒業式に出なければ迷惑をかけてしまう!」と思い詰めた私は、5日で自主退院を申し出ます。
主治医が3ヶ月は安静にというのを断って退院し、同期の友人・後輩・先生方には入院して病気と診断されたことを隠して式に出席しました。ここ数週間の記憶を消して全て無かったことにしたかった。
当然のことながら、式の後しばらくは力尽きて倒れていましたが、この時はまだ自分が病気であることを全く認めることができませんでした。
うつ病の本当の怖さを知らず無理して就職、約5年で限界を迎える
この上なく最悪な24歳の春でしたが、その後も気力を振り絞り、約5年間は広告会社、美術館、大学と臨時の非正規雇用を渡り歩き、薬物治療をしながら懸命に働きました。しかし、それが限界でした。
うつ病には病気そのものの症状に加え、それに長期間耐えることによる自信喪失や対人恐怖、体調の悪化など、二次的な障害を呼ぶという側面があります。判断力の低下から危険人物に気付けなかったり、非正規という弱い立場を理由にハラスメントに遭うなどの困難も経験しました。
さらに、それらに警戒していると常に交感神経優位となり、不眠でいつも落ち着かず、ますます薬が手放せない状態となります。
最後の臨時職を退職した時は、薬の副作用で顔面蒼白、痩せこけた手は震えが止まりませんでした。あまり親しくなかったはずの男性の同僚が、気の毒に思ったのか涙を浮かべていたのを覚えています。困惑する周囲の様子を見て完全に諦めがつきました。「今の私、誰から見ても病人なんだ…もう職場に居てはいけない」と。
万事休す。希死念慮と闘う日々
退職して1年は、ほぼ一日中眠っているか、目を開けて横になっていました。頻繁に高熱が出て、脳が辛い記憶を焼き払っているかのようでした。身体が重く、トイレにはかろうじて這って行きました。29歳という若さで、しかも精神病で自分がここまで衰弱するとは想定外で、崩れ去る人生の希望をただ傍観するのみでした。
この時期が一番症状が重く、油断すると希死念慮が襲ってくるので必死に眠りました。当時、家族と愛猫たちがいてくれたので死ぬわけにはいかないと踏ん張ることができましたが、こうなってみて初めて、うつ病が単なる気分の落ち込みなどではなく、気のせいでもなく、生きる力を根底から蝕むほどの恐ろしい病気だと理解しました。
この状態は長く続き、その後の生活にも影響しました。想像してみてください。
例えるなら、うつ病患者を「VRゴーグルを装着して高層ビルの最上階から最上階を綱渡りする恐怖ゲームをしている人」だとすると、健常な精神の人は「VRゴーグルをつけずに普通に生活する人」です。その装置は他者には触れることができず、自力で外すこともできないが、不意に外れたり、また勝手に装着されたりする。というような感覚…。
周囲から見ると、ゴーグルを外せばいいのにとしか思えず、意味不明です。この時の疎外感や恐怖感は、今でも忘れることができません。

はじめの一歩。起きている時間を増やし、少しだけ家事をする
療養生活2年目、同居していた祖父が90代で認知症が始まり、徐々に目が離せない状態になっていきました。私は水墨画が趣味で優しい祖父のことが大好きでした。両親が共働きだったので、子どもの頃はずっと面倒を見てもらっていました。
祖父に自分の弱った姿を見せ続けるのも辛かったですし、今度は自分がしっかり助けなければという気持ちから、なんとか最低限の家事だけを始めました。
経験のある方もいらっしゃるかもですが、常に身体が操り人形みたいで現実感がない。これは解離という症状だと医師が解説してくれましたが、名前が分かったとてどうにもなりません。
それよりキツいのは処方薬が合わない時です。体調が悪化して不安定になり、トラブルが起きても医師は「そうですか、ではお薬変えましょう」だけですから。
おっと愚痴ってしまいました。ともかく、解離状態でも月に数日くらいはまともに頭が回る日もあり、そんな時はうっすら将来のことを考えます。「ワタシハ30歳、マダ先ハ長イ。コノママデハダメダ。」
1日10分くらいから少しずつ家事を増やし、まず起きている時間を増やしました。嫌な考えに支配されないように、ネガティブ思考が始まったら掃除か洗濯をすることにしました。
はじめの二歩。見上げてごらん夜の星を 宇宙に思いを馳せる
その頃、夜に表へ出て星を見るのが趣味になりました。「あ〜あ、今日もほぼ布団で過ごしちゃったな。」と落ち込みそうになると、こう考えます。「でも、一箇所で寝ているように見えても宇宙空間の移動距離で言えば地球一周分の旅をしたんだ。太陽が沈み星が昇るのはそういうこと。」と夜空を眺めるのです。
季節が変わると星座の位置の変化に気付きます。北斗七星は街中でもよく見えるので、同じ場所から観察していると夏と冬では見える高さや方角が違うことが分かります。
地球は自転と公転をしているので、たとえ引きこもっていたとしても、実は1日に約240万km移動しています。さらに太陽系ごと銀河の中を移動している上、銀河もまた動いているため、その中にいる自分の移動距離は途方もないはず。だから、少しも進歩していないような冴えない日々に感じていても、宇宙座標で言えば3日後は全く別の場所に来ているということ。
生きているだけで時空をジャーニーしているのですから、停滞の毎日は幻想。何億光年輝く星にも寿命があるように、うつ病を招くほどの辛い過去があっても、何度でも何度でも順々と遠くなっていく🎵という理論です。不安を反芻してしまう時は、宇宙の広さと比べよう。だいたい解決します。(笑)

はじめの三歩。ランニングシューズを買ってやみくもに走り出す
少しずつ起きていることに慣れてくると、近所での買い物ができるようになってきました。解離状態は相変わらずですが、頭のコクピットからロボットを操るような感覚で一応行動はできます。
とにかく体力がなかったので、短絡的に走ろうと思いました。決意表明として、4000円の白とピンクのランニングシューズを購入し、高校時代のジャージを着て家の周りを走ってみることに。まだ人目が怖いので黄昏時にひっそりと始めます。初日は数メートルで足がもつれ息が切れましたが、「オオ…ワタシ走レテル…」と、身体が動くこと自体に感動しました。
ほとんどウォーキングの日も多かった気がしますが、体調の良い時に続けた結果、少しずつ筋肉や肺活量が増え、始めた頃よりだいぶ楽に走れるようになりました。小さいことですが、萎んでいた風船に空気が入るように心にもハリが戻ってきたようです。心地良い疲れもあって、睡眠薬なしで眠れる日が増えていきました。
しかし、調子が良い時に無理をすると揺り戻しが来るというのも、この時期には良くありました。真面目な人は目標を決めて頑張りたいかもしれませんが、うつ病の回復にはお勧めしません。目標に届かなかった時に自分を責める気持ちが出るからです。結果が出なくても焦らないことが大切だと思います。

はじめの四歩。うつ病になった原因を整理する
だんだんと人間の感覚が戻ってきたような感じがします。心の状態はまだ少し押されただけで壊れそうですが、微妙に前に進んでいます。
次に考えたのは、そもそもの根本原因を整理すること。簡単にまとめると、特に大学進学以降、私は自分の価値観に自信がなかったため自分以外の何かに評価されることで承認欲求を満たし、それによって自己実現できると信じていました。つまり「良い子」になりたかった。自分のイメージする親や世間という実態のないものに迎合しようと、自我を抑え込み一人相撲をしていたのです。
そのような考えでいると、望み通り自分を否定してくる人を引き寄せます。嫌な言い方や攻撃的な態度を取られても、自分を守るための怒りは湧きません。むしろ「この人の方が正しい。私のために言ってくれてるんだ。自分が間違っているから自分を変えなくては。」という甚だ危ない思考になっていました。反対に、自分を認めてくれる人のことは「私はダメな人間なのに分かってくれない。」と思っていました。
これが酷くなってくると自分が何をしたいのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、何が食べたいのか食べたくないのかまで分からなくなってきます。何をしても否定されている感じがする。こうなると病気の前段階と言えます。
(後に愛着障害、境界線、共依存という概念を学習し、この心理への謎は大きく解けていきました。)
はじめの五歩。「好き」を取り戻して自分に返してあげる
うつ病になった原因がつかめてきました。次は、無くした「好き」「楽しい」の感情を取り戻す作戦です。もし、何の制約もなかったら自分は何がしたいのか?今叶えるとしたら何ができるだろう?
小学生の時のことを思い出すと、私はいつもノートにマンガを描いていました。しかし、高校からデザイン科に通い出すと、周りは当然絵もストーリーも個性的で上手な人ばかり。レベルの差を見せつけられ、マンガ家になるなんて大それた夢だったと諦めました。
「でも、何も失うものがない今、もう一度描いてみたい。理由はないけどマンガが好きだし、楽しいから。もし完成したら友達に読んでほしい。」
うつ病の時は何かしたいと思うことがほとんどないので、希望が消えないうちに仕舞い込んでいたケント紙とGペンを取り出します。インクは干からびていたのでパイロットの証券用インクを買いました。さっそくコピー用紙にプロットを書き出し、ネームを描きます。(タブレットでないところが昭和感)
この作戦の良い点は、最終的に企業での就業を目指す上で必須項目の「机に向かう」「考えたことをまとめて伝える」練習になることです。当時は数時間落ち着いて座ることも困難でしたから、リハビリとして最適でした。
実際に描きはじめると、毎日数時間机に座って集中することが可能になってきます。何かのためではなく、理由なく好きなことをしている時間は幸せで贅沢だなあと感じました。
最終的にいくつかの作品を描き上げて出版社に送るも全て落選したのですが、友達は面白がってくれたので良かったです。返送された作品には編集者からのコメントが添付されており、「机の上だけで想像した感じ。リアルな人間の心理、キャラクターが描けていない。」というような内容でした。その通り過ぎてぐうの音も出ません…。
結果は残念でしたが、それはそれ。予想外の良い効果もありました。「好きの力」で、ひきこもりだった私が外出できるようになっていたのです。
人混みも電車も苦手でしたが、コミックマーケットの出張編集部(東京の出版社から地方のコミケに編集者が出張し、来場客の描いたマンガについて批評してくれる)に出かけ、対面でお話を聞くこともありました。プロの編集者の方に自分の拙い作品を直接見せる度胸があるんだから、今思えばすごい!

振り返りと反省、まとめ
ここまで来るのに2年以上は費やしましたが、紆余曲折しつつも、少しは回復してきたように思います。なにより行方不明になっていた「好き」「楽しい」が帰ってきてくれたのが幸いです。
心に「好き」が戻ると、うつ病になってから感じることがなかった色彩の美しさが、急に胸に刺さるようになりました。うわっ、空ってこんなに青かったんだ、草は緑、椿は紅い。キレイだな。という非常に素朴な感動が押し寄せて、「いや、初めてベビーカーでお散歩する赤ちゃんじゃないんだから…」と、いちいち戸惑っていました。
振り返ってみると、何の前触れもなく走り出したり、星空観察をはじめたり、マンガを描いたり、30歳前後の大人がずい分好き勝手なことをしていました。理由を知らない人からしたら単なる奇行です。
療養中は自分のことを優先したので、家族にはかなり迷惑をかけたと思います。家族と友人の助けがあってこのような生活ができたのだと、肝に銘じております。本当に感謝しかありません。
※個人の体験談です。医療アドバイスではありません。体調の判断は医師にご相談ください。
Part2につづきます。
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